国会に幽霊が出る─


直接民主主義という幽霊が。

 選挙で選出された議員たちによる虚構の民主主義に立脚する既成政党は、口では国民の政治参加を喚起しようといいながら、実は国民が直接政治的な決定者となることを怖れている。

 厳しい選挙を制して議員の地位を獲得した政治を生業とするものたちにとってみれば、その既得権を無責任な一般国民に侵されたくないというのが本音ではないのか。ましてやすべての既成政党への懐疑の念、失望感のあらわれが「支持政党なし」として増大の一途を辿っているとなれば安穏としている場合ではない。「支持政党なし」という名の直接民主主義の実現を目指す政党が、既存のすべての政党とその補完勢力から非難されるのは、直接民主主義を待望する国民が多数になりなんとしているからにほかならない。世論調査の政党支持率は「支持政党なし」が他党を押さえて既に断トツの一位なのだから。

 政治腐敗の根絶、政党中心政策本位を実現するとした政治改革は、衆院選挙制度の小選挙区比例代表並立制への移行、政党を除く政治団体や政治家個人への企業献金の禁止、またそれによって減る献金額の埋め合わせに年300億円もの政治資金を税金で賄う政党助成制度等を導入したが、それで日本の政治は果たしてよくなったのか?否、政治改革はむしろ既成政党とそれに寄り添う政治家の既得権を確固たるものとし、主権者たる国民の代表などではない、そこから遊離した別の新たな特権階級を生み出したに過ぎない。政治家が国家から手厚い保護を受ける一方で結局のところ、国民の政治的権利はむしろ軽視されるに至ったではないか。

 

 小選挙区制は、有権者から多様な選択肢を奪い、死票を増やし。選挙における得票率と、結果としての議席占有率との間にあまりに大きなギャップを生じさせている。さらに小選挙区制は、二大政党制を強迫し政党の野合による寡占化を促進、国民から選挙の選択肢の多くを奪った。

 政党助成金は、派閥を弱体化させたが、金と公認権を差配する党に対する政治家の依存心を強めるばかりで政治家自体が国民より党に顔を向ける結果となっている。

 極々限られた選択肢から支持政党を選ぶのは難しい。何故なら、ある政党の特定の政策に関しては、賛同できても、その政党の他の政策に関しては賛同しかねる場合が大いにある。しかし様々な政策が大抵パッケージとしてセットになっているのが現状だ。抱き合わせ販売で要らないものまで買わされる消費者と供給者の関係が、すなわち今の国民と政党のそれぞれの立場であるといえる。政党本位とはこういうもので、これでは国民に主権があるとは言えない。ましてや、選挙の時に訴えた公約が、いとも簡単に反故にされ裏切られる経験を何度もしてきた。「議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない」(憲法五一条)とする自由委任の原則を盾に、「公約違反に罪なし」と嘯きそれを繰り返すのだ。多くの国民有権者は、任期中何をやっても許される白紙委任状を政治家に渡したつもりはないはずだ。

 そもそも、日本国憲法前文は、国民の代表者が権力を行使するものとし、国民は「正当に選挙された国会における代表者を通じて」行動すると述べて、議会制民主主義を採用することを明らかにしている。議会制民主主義が本当に民主主義として機能するためには、代表者(議員)の構成が、民意を正しく反映するものでなければならない。しかし現在の日本の選挙制度では、支持する政党及び候補者がないとしても「支持政党なし」、「該当者なし」という選択肢がないために、仕方なく消去法的な選択肢の中で、どこかの政党や候補者を選ばざるをえないという妥協を強いられる苦痛を感じる国民は少なくない。このような有様で投票率の向上など望むべくもないではないか。果たしてこうして示された選挙結果をして本当の意味で民意が反映されていると言えるのだろうか?国民の意思を可能な限り反映できるような選挙の実現こそ何より重要ではないのか?我らは考え、あえて「支持政党なし」という選択肢を設けることで多様な民意の受け皿となり、真に「国民主権」の理念を実現させようと、行動を起こすに至った。

 そして、現代の情報通信の技術の活用で、現行制度の中でも直接民主主義の実現が可能となった今、幽霊の姿はいよいよ巨大なものとなって国会議事堂の重い扉を開くのだ。